●ヨハネの誕生
ルカ福音書には賛美のことが多く記してあります。イエスの誕生のとき天使の賛美がありました。またマリアの賛歌、シメオンの賛歌、そして今日のザカリアの賛歌も記されています。
ザカリアは祭司でしたが、くじに当たって神殿での務めをすることになりました。何万人もいた祭司たちの中で、生涯に一度でも聖所での務めができる人は多くありませんでした。しかしザカリアにくじが当たったのです。
このようにして聖所で務めをしていたザカリアに天使が現れました。そして彼に「あなたの妻は男の子を生む、その子をヨハネと名付けなさい」と告げたのです。そして「その子はやがて来る主メシアの前に先立つ者となり、その道備えをするであろう」と予告します。ザカリアは驚いて「わたしの妻は老齢ですのに、どうしてそんなことがあるでしようか」と問いただします。この不信仰の言葉がとがめられて、ザカリアはヨハネが生まれるまで話すことができなくなりました。実はマリアも天使から「あなたは男の子を生むでしょう」といわれた時、「どうしてそんなことがあるでしょうか」と問い返しました。でもマリアはとがめられていません。なぜザカリアだけがとがめられたのでしょうか。年老いた婦人が子も産む、ということはイサクの誕生のように聖書に前例があります。でも乙女が子を宿すことはその予言はあっても前例のないことでした。ですからマリアの言葉はとがめられなかったと思うのです。しかしそれ以上に、神に仕え、その祝福を伝える祭司には神の言葉への厳しい従順が求められたのではないでしょうか。神の言葉を信じない働き人は何事も語る資格を失うのです。
●来るべきメシアの働き
ザカリアは長い沈黙の後、口を開くことができました。その最初の言葉が、今日の「ザカリアの賛歌」なのです。その歌の中には来るべきメシアがどのような救いの働きをされるかについて語られているのです。
「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。
主はその民を訪れて開放し、
われらのために救いの角を、
僕ダビデの家から起こされた」(
1 : 68 , 69 )
神ご自身が民を訪ねてくださるのです。そして民を解放するのです。何の力から解放するのでしょうか。
ザカリアの時代、スラエルの人々はローマの国に征服されていました。ですから人々はローマの国から解放してくれるメシアを持っていました。しかしザカリアの歌を見ると、その敵は人間ではなく、罪であることが分かります。
「主の民に、罪の赦しによる救いを知らせるからである」 (77 節 )
神様は罪からの解放者としてキリストを送ってくださるのです。人間は目に見える悪や敵はよく分かります。しかし自分の中にある罪は見えません。自分の罪と戦わなければならないときに、他の国や他の人の悪と戦おうとします。日本の国も他の国を憎みましたが、他の民族を虐げたり侮蔑するような自分たちの内なる罪こそ一番の敵であり、日本を滅ぼしたものなのです。わたしたちの心は誰でもそのような罪の力に支配されていたのです。
●神との平和を与える方
私たちが自分の罪を認めようとしないのは、裁きをおそれるからです。ですから人々は自分を裁く、聖なるまことの神を避けてしまうのです。イエス・キリストは私たちの罪を取り去ってくださいました。
68 節は前の訳の聖書では「主はその民を顧みてこれをあがない」とあります。「解放し」、という言葉が「あがない」、となっています。奴隷はどのように開放されるのかというと、身代金を払って誰かが買い取るのです。「あがなう」とは「代価を支払って買い取る」という意味です。奴隷は無給で働かなければなりませんから自分で貯金をして身代金を払うことはできません。誰かが自分の身代金を支払ってくれなければならないのです。
イエス様は私たちの世界に来られ、わたしたちと同じ弱い体を持つ人となられました。多くの誘惑と苦難の中で神に完全に従いました。その命を罪の代価として差し出し、私たちが天地万物の前に非難されることなく、赦されたものとして解放されたのです。。私たちにとって以前は神は怖い方でしたが、いまは憐れみ深い方となっています。ザカリアはこう歌います。
「こうして我らは、
敵の手から救われ、
恐れなく主に仕える、
生涯、主のみ前に清く正しく。」 (
73 − 75 )
罪の黒雲は破られ、キリストの十字架の上から輝かしい光が差し込んできたのです。
それはキリストによる神との平和の光です。
●恐れなく仕える
ザカリアが「恐れなく主に仕える」と語る時、その恐れとは第 1 に神への恐怖ですが、それだけであく、キリストはすべての恐れからは開放してくださいます。神から離れた人には恐れがあります。その恐れに動かされて正しい道を歩むことができないのです。
ここ数週間、建築士による「構造計算」の偽造問題がニュースとなっています。そんな偽りをしたのは本人の言い分によれば「仕事を断ると生活できなくなる」という恐れがあったからだというのです。同じように「人から悪く思われる」とか「見放される」、「仲間はずれにされる」、「食べていけない」、「迫害される」といった恐れに支配されて人は間違った道を選んでしまうのです。しかしキリストによって神との平和を得ている人は
「もし神が我らの味方であるならば、誰が私たちに敵対できますか」 ( ローマ 8 : 31)
と言い、
「主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう、人間がわたしに何をなしえよう」 ( 詩 118 : 6)
と歌うことができるのです。だから
「生涯、主のみ前に清く正しく」
お仕えすることができるのです。
何よりも強い主が罪からの解放者として、また王として私のうちにいてくださいます。クリスマスはこの恵みの主をあらためて私たちのうちにお迎えする時なのです。
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